神道大成教 天照山神社千葉布教所

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平山省斎の教え

神道大成教奥宮・天照山神社の創建には、平山省斎の神道思想が背景にあります。省斎は、混迷する時代の中で神道の根本を追求し、その思想が神道大成教の開教、ひいては天照山神社の創建につながっております。 この教えを広く伝えるべく、省斎の思想の根幹であり、信仰の基本を説く 『本教真訣』、 及びその実践を示す 『修道真法』 の二大教典の全編現代語訳を公開いたしました。
※平山省斎の思想を多くの方に知っていただくための公開です。ご紹介いただく際は当サイトのリンク、又は出典の明記をお願いいたします。

本教真訣 内篇
大教正 平山省斎謹述

第一章

世界がまだ形作られる前、何もない広い空間に一人の神さまがいました。この神さまを天之御中主神と呼びます。その次に高皇産霊神、次に神皇産霊神が生まれました。
これらは天地創造の中心であり、すべての生き物や物の根本です。人間の目で見たり耳で聞いたりすることはできませんし、においや形を追いかけることもできません。
しかし、その力は人間の想像がつかないほど不思議であり、これがすべての神さまの本源となっています。

第二章

天之御中主神が活動を始める時に高皇産霊神が生まれます。その活動を終えて静まる時に神皇産霊神が生まれます。この二人の神さまが互いに影響し合うことで、天と地、他の神さまたち、そして人間やあらゆる物が生まれます。これらはすべて天之御中主神の本体と働きの現れです。
一人の神さまから二人の神さまが生まれ、その二人からすべての物が生まれます。そして多くの神さまたちは最終的に二人の神さまに戻り、その二人は最初の神さまに戻ります。だからこれらを合せて造化神といいます。
この造化神という神名は、神さまの力によって新しい命が次々と生まれ、決して途絶えることがないということを表しています。難しい言葉や文字に惑わされなければ、とても分かりやすい仕組みです。

第三章

天の神さまの魂が人間に分け与えられたものを神魂といいます。人間がその魂の向かう場所に従って行動することを惟神の道といいます。しかし人間には体があるため、どうしても心や体が汚れてしまったり、自分勝手な欲に負けたりします。そのため神魂の働きを十分に発揮して惟神の道を歩むことができなくなります。
そこで心や体の汚れをきれいに洗い流して、神さまから最初にもらった本来の姿に戻る必要があります。そのために鎮魂法を学び、どのような危機の時でも必ずこれを行います。
これを長く続けていると、普段の生活の中で言葉にできないほど素晴らしい境地に達します。そうして心から天を敬い、神さまと向き合う境地に達した時、言葉では表せないほど神さまと心が通じ合うようになります。体と心は自然ときれいになり、心が輝き出して、昔から今までのことを見通し、ものの性質を深く理解できるようになります。これによって神魂の本体と働きをすべて発揮できるようになります。これを「神習い」といい、また「神の教え」というのです。

第四章

天の神さまの休むことのない誠の心は、次々と命を生み出して育てていきます。しかし、もしそこに人間がいなければ、その素晴らしい働きを完成させることはできません。
たとえば植物の種は天の神さまが作ったものです。しかしその種をまき、肥料をやり、耕し、草をむしり、お米を収穫してご飯を炊いて、人々を育てるのは人間の仕事です。服を織ること、器を作ること、大工仕事から、国を治めること、軍隊を動かすこと、天気を調べること、海を渡ることに至るまで、すべての仕事が同じです。だから神さまは、ご自身の誠の心を人間に与えて、その役割を助けさせているのです。 これを見ると、天の神さまは人間のようであり、人間は神さまの素晴らしい働きを助ける道具のようなものです。人間は、神さまがやりたいと思っていることを代わりに実現できます。これが神人一体であり、人間も聖人や神さまのようになれる理由です。 倭姫命の言葉にも、「天の神さまの正しい魂は、親の体を借りて人間の身に宿る。神さまは常に私たちの心の中にいる」と書かれています。

第五章

自分を磨くために一番大切なのは、誰も見ていない所でも行動を慎み、誠意を尽くすことです。誠意を尽くすとは、暗い部屋でも、公の場でも、激しい戦場でも、死の間際でも、日々の家庭生活でも、常に自分の行動を振り返って静かに考えることです。 どうすれば自分の果たすべき役割を全うして、天に対しても地に対しても恥じない生き方ができるかを考えます。また、どうすれば人生を終える時に神さまに復命して、後悔なく死を迎えることができるかを考えます。
そもそも、生きることや死ぬこと、物事がうまくいくことやいかないこと、お金持ちになることや貧しくなることなどの運命は、すべて天の神さまが決めることです。昔の言葉でいう神漏岐命、神漏美命とはこのことです。運命に従って生き、運命に従って死に、良い状況も悪い状況も、豊かさも貧しさも、すべて神さまの力であり、人間が操作できるものではありません。私たちはただ、自分のやるべき仕事をやり遂げて、神さまの元へ戻るだけです。

第六章

そうはいっても、人間が行う善いことや悪いことによって、その人の運命が変わることもあります。それは、声を出せば響きが返ってきたり、体があれば影ができるのと同じくらい確実なことです。昔から今にいたるまで、たくさんの証拠があります。だから、善いことは一生懸命に行うべきであり、悪いことは絶対にやめるべきです。

第七章

与えられた役割を果たし、神魂の力をすべて発揮して寿命を迎えた時は、その魂は天に昇って復命を終え、天の宮殿に住むことになります。

天の宮殿は明るく清らかで、心が安まる場所であり、どんなに美しい言葉を使っても表現できないほど素晴らしい楽しみがあります。大昔に伊弉諾神がこの世界での仕事を終えて天に昇り、復命して永遠に日の稚宮に住んだというのはこのことです。 もし罪を犯したり汚れたりして神魂を傷つけてしまったときは、汚い世界へ落ちてしまいます。だから倭姫命の言葉にも、「罪のない者は常世国に帰り、罪のある者は黄泉国に行く」とあります。このことをしっかりと心に留めて、自分の行動を戒めなければいけません。

本教真訣 外篇
大教正 平山省斎謹述

第一章

天照皇大神が初めて農業や養蚕、衣服や食事の方法を世の中に教えられた時、指導者として村の長を置かれました。
また、保食神はご自身の体から五穀や蚕を生み出され、素盞嗚神は山林に木々を植えて船を作られました。
大己貴命と少彦名命の二人の神さまは、力を合わせ心を一つにして日本全国を開発されました。
その後、天孫が多くの部下を率いて地上に降り立たれ、神武天皇は地方官を置いて国を整えられました。
崇神天皇は神々を敬って教えを大切にされ、将軍たちを諸国に派遣されました。そして、船を造らせ、池や溝を掘って農業を助け、人口を調査し、お年寄りから若者まで社会の秩序を定め、男女にそれぞれふさわしい税や労役を課されました。
成務天皇が諸国の境界を細かく分けて地方官の長を置かれたのも、すべては多くの国民がそれぞれ安定した仕事を持ち、船での物資の運搬を便利にし、飢えや寒さに苦しむことがないようにするためです。
このように歴代の天皇が国を治められた結果、のちの時代には家々は豊かになり、それぞれの家に行き届くようになりました。これらはすべて、国民が家族を養い育てて、天から与えられた本分を全うできるようにするための仕組みです。
中世には、堯や舜、周公や孔子といった聖人の教えを取り入れて、世の中を治め民を救うための政治や学問の手本としました。
そして現代では、アメリカの農業器械、イギリスやフランスの軍法や法律、西洋諸国の汽船、汽車、電気通信、時計など、あらゆる文明の利器を取り入れています。
これらを外国から採用して、国祖や天神、歴代の天皇の遺志を助け成し遂げることは、今上天皇が即位の時のお誓いの中で、「知識を世界に求めて皇基を大いに盛んにすべきである」とおっしゃった言葉そのものです。何一つとして、国祖や天神の素晴らしい偉業を継承し、広げていないものはありません。
世の中の気風は日々開け、技術は年ごとに新しくなっています。国家に大きな利益をもたらすものが次々と現れており、まさに天神から授かった本分を全うし、天祖が成し遂げようとされた意志を完成させようとしています。ですから、我が国の知識人でその学問に励む者は、みな国祖や天神の遺志を継ぐ者であり、今上天皇の忠臣です。誰がこのような人々を外国人の奴隷などと言うでしょうか。
しかし、もしこれらの技術を、国祖や天神の遺志を継承するという根本に基づかせずにただ有り難がって使うならば、それは外国人の乗り物をただ肩に担いで運んでいるだけの従者のような存在になってしまうだけでなく、国祖や天神が期待されたことに大いに背くことになります。
例を挙げましょう。昔、あるおじいさんが、子孫のために一年に百万石ものお米が収穫できる広大な田畑や屋敷を残しました。おじいさんは、将来子孫たちが土地の力を限界まで引き出すのを期待していましたが、子孫たちは一年にわずか千石ほどしか収穫できませんでした。 その後、時代が進んで、優れた農機具を売る者が現れ、これを使えば一年に十万石が収穫できると言いました。子孫がそれを買って使ってみたところ、確かに十万石が収穫できましたが、そのお米はすべて、おじいさんが残してくれた土地から出てきたものでした。
後日、また別の者が現れ、これを使えば一年に二十万石が収穫できると言いました。これも買って使いましたが、収穫できたお米はやはり、おじいさんの遺志が込められた土地の恵みでした。さらに三十万石、四十万石と収穫できる器械が次々と現れたので、ますますこれを取り入れて土地を開墾し、百万石に達するまで収穫を増やし続けました。
これによって考えてみると、使う器械は日ごとに新しいものへと取り替えていくべきですが、おじいさんの遺志である土地そのものは、百代先までも絶対に変えてはならないものです。もし子孫たちが、「この豊かな収穫はおじいさんのおかげではなく、器械を売る者の功績である」と言い出したなら、おじいさんは怒って、「それならお前たちの力を試すために我が田畑を没収しよう、お前たちは中身のない器械だけを持って出て行け」と言うでしょう。田畑を失ってしまえば、器械だけがあっても一粒のお米すら生み出すことはできません。物事の根本がどれほど重く、枝葉がどれほど軽いかは、知恵のある者でなくても分かります。
どうか学問をする者は、国祖の遺志を継承し、天神の大業を広げることを自らの任務としてください。そうすれば、東方帝国の家臣として恥じることはありません。だからこそ、国祖や天神の遺志を継ぐ者であり、今上天皇の忠臣であるというのです。

第二章

我が国の刑法は、のちの時代の天皇によって定められたとはいえ、実は大昔にその始まりがあります。
伊弉諾尊が火之迦具土神を切り裂いたことや、伊弉冉尊が一日に千人を締め殺すと言われたことは、死刑の始まりです。罪を認めさせて身柄を拘束し、素戔嗚尊にお詫びの品を出させて罪をあがなわせたことは、懲役や罰金の源流です。これらはすべて、凶悪で心を改めない者を懲らしめて、多くの国民を善良な道へ帰らせるための仕組みです。しかし大昔は、軽々しく死刑を執行することはせず、罪をあがなわせることを重んじていましたが、当時の法律を確かめられる書物はありません。
推古天皇の十二年に厩戸皇子が憲法十七条を選び、文武天皇の大宝二年に大宝律令を全国に発表されたのも、やはり昔の憲法を引き継ぎながら内容を細かくしたものです。また、その多くは唐の制度を手本にしていますが、その中には、我が国の祖先から伝わるきまりも含まれていました。後世に北条氏の御成敗式目などが作られましたが、これも過去の歴史を証明するには十分とはいえません。徳川氏が天下泰平をもたらすに及んで、公事方御定書や類例集が整いました。
明治維新以降は、唐、明、清の法律を参考にし、さらにフランスの法律を多く取り入れましたが、今は世の中の気風が日々進歩しているため、時代に応じた新しい法律がなくてはなりません。そこで、広く世界各国の政治や法律を取り入れて、我が国の風習と照らし合わせています。どうして決まった手本だけに従うことがあり得るでしょうか。中国の制度を採用し、西洋の法律を調べるのは、すべて国祖や天神の遺志を助けて成し遂げ、多くの国民を善良な道へ帰らせるためのものであり、これこそが永遠に変えてはならない根本なのです。

第三章

大己貴神が乱暴な神々を静め、武甕槌神と経津主神の二人の神さまが従わない者を征伐し、神武天皇が自ら水軍を起こし陸軍を率いて大和地方を平定されたこと、景行天皇が自ら出向いて征討され、日本武尊が東と西の国境の敵を征伐されたこと、神功皇后が軍法を整えて三韓を征伐されたことは、すべて乱れを救い、暴力を禁じ、多くの国民を保護し、国家の主権を立てるための行動です。
そもそも兵制については、大昔から独自の法がありました。中世になると、孫子や呉子、戚継光や兪大猷といった兵法家の書物を参考にし、あるいは武田家や上杉家の兵法に従うこともありました。今の陸軍の制度はフランス式を用い、海軍の制度はイギリスの法則に倣っています。
しかし、実践の技術や運用の妙味について日ごとに磨き、月ごとに鍛錬を重ねていけば、将来的にイギリスやフランスに勝る実力を持てないはずがありません。優れた点があればそれを取り入れ、天神や歴代の天皇の遺志を助け成し遂げるという方針は、すべて第一章で説明したとおりです。

第四章

大昔、大己貴命と少彦名命の二人の神さまは、天の命令を受けて力を合わせ、心を一つにして、初めて医療や禁呪の法則を定められました。これによって国民の病気を救ったのは、多くの国民を健康で長生きさせ、それぞれに与えられた天職を全うさせるためです。
桓武天皇の時代には和気氏が現れ、円融天皇の時代には丹波氏が興りました。その後、黄帝、岐伯、張仲景、孫思邈といった名医の治療法を取り入れてきましたが、最近では広く西洋の医学を研究しています。
明治維新以降は、ドイツから大医を招いて生徒に教えを授け、その医術を広めていますが、これもやはり二人の神さまの遺志を継承し、発展させるための活動です。この医療に従事する者は、みな国祖、天神、歴代の天皇の忠臣であり、遺志を継ぐ者です。しかし、現在では漢方医学と西洋医学があり、時にお互いが対立して進むべき道を失っているように見えます。彼らはどちらも神州の神民であり、同じように二人の神さまの仕事を助ける者同士です。
切に願うのは、漢方医は西洋の理論を学び、西洋医は日本の風土に合う治療を取り入れることです。お互いに力を合わせ、心を一つにすること、それはまるで大己貴命と少彦名命の二人の神さまのようであり、先人の残した素晴らしい事業を完成させて、国祖や天神の恩徳に報いるべきなのです。

第五章

大きな道は二つとなく、昔から今へ通じ、天から地へと広がっています。そして、惟神という二つの文字は、すべての教えを包み込んで余すところがありません。しかし、世界各国の聖人や賢者が次々と現れ、それぞれの土地の風土に従って教えを設けたため、その教えもまた多くの道に分かれました。
地球全体における大きな教えは、大別して六つあります。我が国の神道、孔子の教え、インドの仏教、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教です。要するに、これらはどれも善を勧め悪を懲らしめることに過ぎません。
しかし、天の道理や人間の道を明らかにし、これらを日常の倫理の間に役立て、自分を修めて人々を治めるための大原則として明白であり、世界中で一日たりとも欠かすことができないものは、我が国の神道と孔子の教えに並ぶものはありません。応神天皇が早くからこれらを採用して、国を良くする政治に役立てられたのも、実にもっともなことです。
もし、ものの根本を究め、目に見える世界と目に見えない世界の霊魂を救うという点を見れば、それは我が国の神道が最も優れているところであり、仏教もまたその境地を一部うかがい知っています。しかし、仏教はともすれば人間の守るべき倫理をないがしろにすることがあるため、同じ基準で並べて論じることはできません。キリスト教以下の教えにいたっては、もっぱら天国や地獄、祈祷による罪の救済ばかりを説いています。これらは仏教の枝葉の流派のようなものであり、もたらす弊害が非常に多いものです。それが我が国の国体に大いなる害を与える理由は、君主と臣民を同じものとみなして平然とし、彼らのいう救世主という者を、国家の君主や自身の父親よりも尊いものと崇めさせる点にあります。
君臣の間にある大義名分を全く顧みない姿勢は、我が国の建国の体制に害をなすだけでなく、全世界の秩序にとっても害毒となります。最近では欧米の諸国でも学術が大きく進歩したため、政治家はみなこの教えを嫌っており、真理を追究する学者たちも度々これを批判しています。それなのに、東洋の諸国では西洋の学問がまだ十分に理解されていないため、むやみにその宗教を信じる者がいます。
欧米の知識人たちがすでに捨て去ろうとしているものを、我が国の人々がみだりに信じ込むのは、知者と愚者の隔たりが非常に大きいと言わざるを得ません。これこそが、学問を始めたばかりの者が最初に正しく見分けなければならない理由です。

修道真法
大成教管長特賜六位 平山省斎述

道を修めるために最も大切なことは、静坐調息にあります。この息の調整のことを息長といい、また級長といい、また気吹ともいいます。道理を究め、正しく行うことを修行の工程とします。
鎮魂法より下の段階の修行は、本人が努力を重ねることで到達できます。しかし、鎮魂法より上の段階に達し、修行が成熟した後の素晴らしい境地は、神さまの助けによるものです。結局のところ、正しい行いを積み重ねることにより、初めて体得できるものなのです。

宝剣教門第一

初めてこの門に入る修行者は、勇猛に奮い立ち、強く硬い意志を持って決断しなければなりません。この世に生まれてから身についてしまった気質の偏りや、ひねくれた物の見方は、まるで大蛇が自分の体に巻き付いているかのように危機感を持つべきです。
これらを一刀両断に切り捨てて消し去り、わずかな毛ほども残してはなりません。その大切な心得が五つあり、一誓、三観、内外清浄などといいます。

・一誓文

掛巻毛畏支 天之御中主神 高皇産霊神 神皇産霊神 天照皇大神 神伊邪那岐神 健速須佐之男神乃 宇豆乃大前尓 教師職位何某 慎敬白佐久 弟子某某伊 負気無毛天神等乃定賜比行賜比志 天真乃解除乃神業乎神習尓習修弖 顕世尓生出始与里今日止云今日尓至末伝 己我心尓知礼留過乎婆痛久悔改米 不知不識毛犯介牟罪穢乃在牟表婆 解除清弖 己躬乎修理固成須陪支三種乃神宝乃随尓 務美勤行牟止 倭心乃雄心以弖思起奴 畏毛天祖皇神等乃高久貴支大道乎 令悟得行得賜閉 故自今而往 苟尓毛皇神等乃大教尓違背久事有良婆 速介久咎米賜比 罪奈比賜閉止 赤佐波尓明支心乃真心以弖奉誓良久止 畏美畏美毛白須
(言葉にするのも恐れ多い、天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、天照皇大神、伊邪那岐神、建速須佐之男神の、尊い神々の御前において、教師の職位にある誰それが、慎み敬って申し上げます。弟子の誰それらは、天の神々が定め行いなされた、真の祓いの神業を神習いによって習い修めます。この世に生まれ出てから今日に至るまでに、自分の心で分かっている過ちについては深く悔い改めます。また、自分では気づかずに犯してしまった罪や穢れがあるならば、それらをきれいに祓い清めます。自身の心と体を修理固成すべき三種の神宝の教えに従って、一生懸命に励み勤めようと、大和魂の雄心を持って決意いたしました。恐れ多くも天祖皇神たちの高く貴い大道を、悟り得て行うことができるようにお導きください。もし今から先、少しでも皇神たちの大きな教えに違背することがありましたら、すぐに咎め、罪をお与えください。このように、包み隠しのない真実の心をもって誓い奉りますと、恐れ多くも慎んで申し上げます)

・静坐調息

身体を柔らかい敷物の上に落ち着けて、お尻の骨をしっかりと床に着けます。
両膝の間を三十センチメートルほど離して座り、体全体の精神をへその下にある丹田気海に沈めます。その際、右手を下に置き、左手を上に重ねます。目は半分ほど閉じて視線を下に落とし、鼻頭を見るか、あるいは神前に祀られている剣、勾玉、鏡に向き合います。
そして、この世に生まれてから積み重なった罪や穢れ、妄念、雑慮、及び身体を衰えさせる悪い息を一回吐き出します。その後に、宇宙の根本である清らかな気と、人類や万物を育てる清浄な気とを一回吸い込みます。
その吸い込んだ気を、気海丹田から腰、太もも、足の裏にまで納めます。日常のすべての関わりを心から手放し、自分の身体への執着も捨て去って、すべてを天地の神の意志に委ねるべきです。
一回息を吐き、一回息を吸うことを一息とします。鼻を天門と呼び、息を吸うことを司ります。口を地門と呼び、息を吐くことを司ります。 最初はこの呼吸を五十回繰り返すことを基準としますが、修行が熟練した後は、百回、二百回、三百回と重ねていきます。その回数が多いほど尊いものとします。

関尹子は次のように言いました。
「聖人は、世の中のすべての存在を自分の一つの呼吸の中に収めることができる。だから、どのような物であっても、その聖人の心の明るく澄み切った働きを乱すことはできない。また、自分の一つの呼吸を世の中のすべての存在へと広げることができる。だから、どのような物であっても、その聖人の自由な行いを邪魔することはできない」

『定観経』には次のように書かれています。
「心を落ち着かせた境地の上には、広々として何も遮るものがなく、心を落ち着かせた境地の下には、広々として何一つとして滞るものがないようにせよ。そうすれば、過去の古い罪や穢れは日ごとに消え去り、新しい罪が作られることはない。何にも妨げられることがなくなり、はるかに俗世の煩わしさから脱け出すことができるのだ」

また、次のようにも書かれています。
「乱れる心は消し去るべきだが、物事を正しく見つめる心まで消してはならない。また、何もない静かな心を目指すべきであって、一つのことに囚われる心になってはならない」

・立誓説

今、皆さんが神明に誓いを立てる理由は何でしょうか。
人間の人生には、身分の高い低いは関係なく、男か女かの違いもありません。天の神さまが人間をこの世に生まれさせる時、神魂を与えなかった人は一人もいません。
この神魂は、まばゆく輝き不思議な力に満ちており、形もなければ、生まれることも死ぬこともなく、内側も外側もありません。それでありながら、世の中のすべての物事や出来事を支配し、穏やかに命を育み、深く慈しみ、愛し合います。これは和魂幸魂、すなわち天の神さまが万物を形作り育てるお徳のことであり、儒教でいう仁や礼、仏教でいう大慈大悲と同じものです。また強い意志を持って物事を裁き、正しいことと間違っていることを見通すためのお徳も中に含んでおり、天地創造の大業をともに助けるものなのです。
大昔に倭姫命が言われた言葉にも、「物事を生み出す神の霊が父母の気の中に入って生まれ出る神を人神と呼び、我が体の中にいらっしゃる神がこれである」と書かれていますが、まさにこの神魂のことを指しています。
人間の体の中には、必ずこのような神体がお祀りされており、その素晴らしい働きを十分に発揮するために、目や耳などの五感や全身の体が仕えています。これは、国を治める君主の命令に従って家臣たちが働くことや、君主が成し遂げようとすることを目指して家臣たちがそれぞれ自分の職務を尽くすことに例えられます。
その役割が正しく果たされている時は、君主は君主らしく、家臣は家臣らしく行動するため、国家は安泰で平穏になります。しかし、もし家臣たちが、自分の主人である君主を我が物顔でこき使うようなことになれば、君主も君主ではなくなり、家臣も家臣ではなくなって、国家が滅びない日はありません。
ですから、肉体がしっかりと神魂の命令を聞いて、天から授かったそれぞれの職分を尽くすようにしなければなりません。そうすれば、惟神の本体は混じりけがなく傷一つない状態になり、神の霊感や感応が生き生きと、自由に働くようになります。
この働きを大きく広げれば、天地創造の大業を助けることになります。身近なところで活かすならば、日々の暮らしが自然と整うことになります。上に立てば、天下を治める政治を支えることができ、下にいれば、家族や親族が仲良く暮らし、心も体も安楽で長生きし、子孫が繁栄することになります。
人生の終わりを迎えた後は、天の神さまの元へ戻って復命し、天の命令に従います。あるいは天地創造の大業をともに助け、あるいは再び人間の世界に生まれ変わって、世の中を治め人々を救うことになります。この神体は、人々が生まれながらに持っているものであり、それぞれが最初から完全に備えているものなので、自分の外側に求める必要はないのです。
もしも、自身の心と体が肉体の欲に縛られてしまうならば、不安や不満を抱えたまま一生を終えることになります。天を恨み、他人のせいにし、虎のような残虐な心や激しい感情を持つようになり、あるいは国家の法律に触れて罪人として牢獄に囚われることになります。たとえ偶然にも法律の手から逃れることができたとしても、目に見えないあの世の神々の罰から逃れることは決してできません。
ああ、悲しいことではありませんか。滅多に受けることのできない人間の体という恵みをいただき、幸いにも正しい道のある君主の国に生まれながら、人生の終わりや末世の時代に至るまで、天地をさまよう悪鬼のような存在から免れることができないのは、なんと大きな心残りでしょうか。
そこで、本年、本月、本日、伊弉諾尊と素盞嗚尊の教えに従い、修道の門に入ります。この世に生まれてから積み重なった罪や穢れを洗い流し、肉体や全身の縛りを解き放って、天の神さまから授かった本来の明るい心に戻りたいと願うのです。今から先、わずかでも教えに背くことがあれば、すぐに私を罰し滅ぼしてくださいと、一度しっかりとした誓いを立てたならば、たとえ肉体を細かく切り刻まれようとも、激しい炎に身を焼かれようとも、二度と悪鬼の世界に落ちることはありません。
心を奮い立たせて、一瞬の間であっても、この大いなる誓願を忘れてはなりません。

思はぬを 思ふと云ば 真鳥住む 卯名手の杜の 神し知らさむ
(我が心の奥で思ってもいないのに、神さまを思っているなどと嘘を言えば、鷲が住むという雲梯の杜の神さまが、すべてをお見通しになり、お知りになるでしょう)

・恥心を発さんことを要す

人間は、心を静かにして余計なこだわりをなくし、自分自身のこれまでのあり方について、じっくりと考え直してみるべきです。大昔の神々や聖人が奇跡を残され、数千年の時が流れてもまるで一日のように語り継がれているのは、いうまでもありません。
それから時代が下り、地上の天皇の御代になってからも、応神天皇や、日本武尊や、菅原道真公、さらに時代が下ってからは加藤清正のような方々に至るまで、その奇跡や霊応は数多く口づてに伝えられており、指を折って数えきれないほどです。大昔の神々や聖人、賢人、君子たちも、私たちと同じ天の神さまの分け御霊であり、少しの違いもありません。
それなのに、あの方々はどうしてその霊力を万年ののちまで伝え、あるいは功績や慈しみを後世に残し、人々から崇め敬われ、祀られ、慕われてひざまずかれ、身分の低い使用人や子供に至るまで知らない者がいないほどになったのでしょうか。
それに比べて、自分はどうして何の役にも立たない瓦礫のような存在のままで、あの方々の足元に近づくことすら望めないのでしょうか。 試しにこれまでの自分の人生を振り返ってみてください。そうすれば、この上なく尊い神魂を持っているのにも関わらず、進んで肉体の欲の言いなりになり、塵のような俗世の煩わしさに染まり、それがいつの間にか自分の習性のようになってしまっていることに気づくはずです。 人の見えない所で悪いことを行いながら、誰も知る者はいないと考え、傲慢な態度を取って恥じる色も見せません。そのせいで神魂は暗く遮られ、悪魔の世界に落ちてしまい、むなしく色欲や食事、財産を争い、親兄弟の間で互いに激しく争い合って、日ごとに鳥や獣と同じ境遇へと沈んでいきながら、自分から悔い改めることもありません。ああ、心から恥じ入り、恐縮すべきこととして、これより大きなことはないではありませんか。
昔の人が言った言葉に、「恥を知る心は人間にとって非常に重大なものである」というものがあります。なぜなら、これを知っていれば聖人や賢者になることができ、知らなければ鳥や獣と同じになってしまうからです。この悪を恥じて憎む心こそが、天の神さまから授かった力強い荒御魂であり、人として成長する道の門を開ける鍵なのです。天祖から授かった宝剣の教えの神髄を、よく考えなさい。

人知らず 心に恥よ 恥てこそ つひに恥無き 身とも成らめ
(他人が知らなくとも、自分自身の心に対して恥じよ。そのように深く恥じる心があるからこそ、最後には誰からも恥じられることのない立派な身となることができる)

為す業に 己が心は 隠れぬを 人は知らじと 思ひけるかな
(自分のその行いに、自分の心は隠すことができないものであるのに、他人は知るまいと思い込んで悪いことをしてしまうのは、実に愚かなことである)

・畏心を発さんことを要す

天の神々が頭上におられ、地の神々が左右におられます。私たちの過ちや悪行は、たとえ他人の見えない隠れた場所で行われたものであっても、神々は朝も夜もすべてお見通しであり、目に見えないあの世からの罰が間違うことは絶対にありません。どうして神々を恐れないでいられるでしょうか。
自分では他人が知らないことをいいことに安心しているかもしれませんが、いわゆる多くの目が見つめており、多くの指が指し示しているようなものです。たとえどれほど綿密に隠し覆ったとしても、自分の心の中を見透かされてしまっては、何の役にも立ちません。むなしく神々の罰や、この世での厳しい処罰を招く原因となるだけです。
そもそも、この体にもしまだ一呼吸でも命が残っているならば、天に満ちるほど大きな罪悪であっても、祓いを修めることで、すぐに神界へ昇ることができます。昔から今に至るまで、悪事を積み重ねた凶悪な人物であっても、一度心から悔い改めて過ちを改め、人生の終わりを立派に締めくくった者は、数えきれないほどたくさんいます。
一念の激しい猛省は、百年の罪や過ちを洗い流すのに十分です。それはたとえば、千年の間ずっと暗闇だった部屋であっても、一つの灯火をわずかにつければ、その千年の暗闇がたちまちのうちに消え去るようなものです。ですから、罪や過ちについては、それが古いものか新しいものかを議論する必要はなく、ただ心から悔い改めることこそを尊ぶのです。
考えてみますと、人間の世界は無常であり、肉体は滅びやすいものです。今日が過ぎてまた明日が来れば、若く黒かった髪もすぐに白髪となります。昔の人が言った言葉に、「朝には若く美しい顔をして現世の栄華を誇っていても、夕方には白い骨となって野原に朽ち果ててしまう」というものがありますが、本当にそのとおりではないでしょうか。
もし一つの呼吸が長く途絶え、両目がたちまち閉じてしまえば、そこから急いで過ちを改め、罪を祓いたいと願っても、もうどうすることもできません。たとえ自分に孝行を尽くす子供や優しい孫がいたとしても、その子たちが先祖の醜い悪行を代わりに洗い流すことはできず、あの世では悪鬼の領域に落ちてしまいます。天の神さまがこれを憐れんでくださったとしても、簡単にその苦しみから救い出すことはできません。子供や孫が善行を積むことで、先祖の苦しみを救う方法については別に教えがありますが、今はここに余計な説明は書きません。 このような理由があるからこそ、大昔に伊弉諾尊は早くから祓いの神法を授け、まだ一呼吸でも命が残っているうちに人々を救おうとされたのです。どうしてこの好機を逃さずに学問と修行に励まないでいられるでしょうか。
ああ、朝の露やカゲロウのように儚い命であり、人生の最後の瞬間が一度訪れれば、身分の高い低い、賢いか愚かか、男か女か、老いているか若いかを問わず、一瞬の猶予もありません。これもまた、深く恐れるべきことではありませんか。ですから、急いでこの修行の道に励み、この世とあの世の両方で安楽に暮らせる境地へ昇るべきなのです。

昔の人の歌にこのようにあります。
立帰り 我と諫る 心にも など従はぬ 心なるらむ
(ふと我に返り、自分自身の行動をいさめる心にすら、どうして従うことができない愚かな心なのだろうか)

またこのようにあります。
昨日見し 人は何処と 今日問へば 峯の松風 渓川の声
(昨日まで元気な姿を見かけていた人はどこへ行ってしまったのかと、今日尋ねてみれば、山の上を吹く松風の音や、谷川の水の音だけが虚しく響いている)

・勇心を発さんことを要す

人間が持つ本来の明るい知恵は、時として現れないことはありません。ある時は、朝早くに静かに座っているとき、ある時は夜の雨や夕方の鐘の音を聞くとき、春の山で鳥が鳴くとき、月の下で虫が鳴くとき、あるいは正しい心の持ち主や立派な人物の言論を聞くときなど、何かの物事に触れた瞬間に、激しく反省し悔い改めることがあります。これこそが、天の神さまが言葉を介さずに与えてくださる誠の心です。
それなのに、最終的に心を奮い立たせて行動を起こすことができないのはなぜでしょうか。それはすべて、自分に本当の勇気がないことが原因です。
人間に強くたくましく、意志の硬いお徳が備わっていないわけではありませんが、考えてみますと、これを邪魔するものが五つあります。物事を引き延ばして改めない「因循」、おじけづいて萎縮する「吝縮」、軽はずみで怠ける「軽惰」、世間にへつらってうわべだけを繕う「郷愿」、自分なんかだめだと自暴自棄になる「自棄」です。
これらはすべて、生まれつきの性質が弱く、意気地がないせいで起こることです。そのせいで神魂は遮られ、固く閉ざされ、暗闇に閉ざされてしまいます。それはまるで、暗い夜に灯火がなく、目の見えない者が頼りにしていた杖を失ってしまったかのような状態です。常に陰鬼に責め立てられることになり、小人はいつも不安でビクビクしている境遇と同じですから、一日中まったく楽しむことができません。
あるいは心や精神が暗くぼんやりとしてしまい、頭を別の方向へ向けるとすぐに大切なことを忘れてしまいます。あるいは何も悪いことが起きていないのに、常に悩み苦しみます。あるいは人に恵みを施したのに、相手からかえって恨みを買うことになります。あるいはため息をつきながら独り言をつぶやきます。あるいは夜の間に悪夢にうなされます。ひどいときには、でたらめな言葉を口にして正気を失うなど、このような種々の悪い兆候は、すべて自分の罪や過ちが深く重いことの現れです。ですから、一刻も早く過ちを改め、祓いの神法を信じて受け入れるべきです。
そもそも、自分の欲や執着を捨て去って、固く決意したならば、消し去ることができない罪などあるはずがありません。切にお願いですから、だらだらと迷い、ためらうことはやめてください。
小さな過ちは、まるで植物のトゲが皮膚や肉に刺さっているようなものなので、すぐに取り除くべきです。大きな過ちは、毒蛇に噛まれたようなものなので、すぐに切り離すべきであり、卑しく出し惜しみをしたり、こだわりを残したりしてはなりません。素戔嗚尊が宝刀を振るって八岐大蛇を細かく切り刻まれたように、また大己貴神が大きな矛を掲げて群がる悪霊を平定されたように、勇猛に奮い立って進み、前へ進むことだけを考えて、後ろへ退いてはなりません。
このように一度しっかりとした誓いを立て、三つの正しい心を備えるならば、罪を祓い過ちを改めることは、まるで春の氷が激しい太陽の光に出会ってたちまち溶けるようなものです。修行に励んで道を得ることが成し遂げられないわけがありません。
昔の人が言った言葉に、「陽の気が発揮される場所では、硬い金属や石であっても突き通すことができる。精神がひとたび集中すれば何事か成し遂げられないことがあろうか」というものがありますが、これがどうして私たちを欺く言葉でしょうか。

源重之の歌にこのようにあります。
筑波山 葉山蕃山 重けれど 思入るには 障らざりけり
(筑波山の前山や、奥深く重なる山々はどれほど重々しく立ちはだかっていても、自分が心から決意して進もうとするならば、何一つ邪魔になるものはない)

平篤胤の歌にこのようにあります。
成せば成り 成さねば成らぬ 成る業を 成らずと捨る 人の果なさ
(何事も、やれば成し遂げられるものであり、やらなければ絶対に成し遂げられない。本当はやればできるはずの物事を、最初からできないと決めつけて諦めてしまう人の、なんと情けない結末だろうか)

紫式部の歌にこのようにあります。
理なしや 人こそ人と 言ざらめ 自ら身をや 思ひ捨べき
(道理に合わないことですね。他人が私をどう思おうと言いようのないことですが、自分自身までが、どうして自分の尊い身を大切に思わず、見捨ててしまってよいものでしょうか)

・内外清浄

『神代口訣』にはこのように書かれています。
「体の汚れを洗い去り、清らかな着物を着て、悪い人間と交際しない者は外清浄である。七日間の身を慎み、三日間の物忌みをして、その心を一つにして神明と交わる者は内清浄である」

圭峰が次のように言いました。
「身を慎んで物忌みをし、体を洗い清めることは、これすなわち外清浄である。乱れる心を静めて奥深い境地に達することは、これすなわち内清浄である」

私たちの説く清浄は、老子や仏教のいう、何もしないことを良しとする清浄無為という意味ではありません。それは、神魂が澄み渡って一点の曇りもない本来の姿であり(内清浄)、その働きに従って行動し、自分勝手な下心を含まないこと(外清浄)です。 わずかな傷も存在せず、すべての環境が美しく輝いている様子は、たとえば曇りのない鏡が何もない清らかな状態であり、物が来れば即座に美しいものも醜いものもありのままに映し出し、物が去れば本来の清らかな状態に戻って、わずかな跡も残らないようなものです。

舎人親王が次のように言いました。
「惟神とは、神の道に従って自然と神道が存在することをいうのであり、およそ毛ほどの人為的な細工も加えず、天の道理そのものに純粋である」

仏教の書物には次のように書かれています。
「目・耳・鼻・舌・体・心の六つの働きは、実体がないようでいて確かに存在し、本来の清らかな心は、形があるようでいて形に縛られないものである。しかし人間は、この六つの感覚器官から生じる欲望に振り回され、自分自身の魂を輝かせることができなくなっている。もし人間が、目は美しいものをむやみに見ることを貪らず、耳は淫らな声を聞くことを貪らず、鼻は良い香りを嗅ぐことを貪らず、舌は美味しいごちそうを食べることを貪らず、体は色欲を愛し求めることを貪らず、心はでたらめな考えにふけることを貪らないようにすれば、一つの心は動かなくなる。これらの六つの門を厳重に守り、あらゆる出来事や日常の物事において左右からしっかりと保護し、本来の正しい性質を傷つけなければ、神聖な力が集まり気力が満ち溢れて、天と同じようにいつまでも長く生きることができるのだ」

そもそも、言葉遣いや顔の表情、立ち振る舞いや日常の動作のそれぞれが、天の道理に従って、自分勝手な下心を加えないならば、外見は整い厳かになり、本来の姿が美しく輝いて、身体が光を放つかのようになります。これを外清浄と呼ぶのです。 目は、それが神魂の命令によるものでなければ、むやみに見てはなりません。耳は、それが神魂の命令によるものでなければ、むやみに聞いてはなりません。口は、それが神魂の命令によるものでなければ、むやみに動かしてはなりません。むやみというのは、手足や全身の肉体の都合によって勝手に動き、その結果、神魂の納得がいかない状態になることを意味します。 儒教でいう、礼に背くものであれば見てはならない、聞いてはならない、言ってはならない、動いてはならないという教えや、仏教でいう、戒律に背くものであれば見てはならない、聞いてはならない、言ってはならない、動いてはならないという教えも、すべて外清浄のことをいっているのです。 むやみに見ること、聞くこと、言うこと、動くことを取り去って、真実の見方、聞き方、言い方、動き方とし、神魂の真実の姿に戻ることこそが、すなわち内清浄です。そうして初めて、神魂の体用が清らかに広く行き渡るようになります。

孔子が次のように言いました。
「自分のわがままな心に打ち勝ち、礼の規範に戻れば、天下の人々は仁の徳に帰服する」

自分の心に打ち勝つことはすなわち外清浄であり、礼の規範に戻ることはすなわち内清浄です。礼とはすなわち天の道理が自然に現れたものであり、天上から授かった秩序というのはこのことです。

昔の修行者が次のように言いました。
「見ること、聞くこと、考えること、動くことは、すべて天の働きである。人間はその活動の中で、どれが真実で、どれがでたらめであるかを見極め、でたらめを取り去って真実に立ち返るだけである」

これは仏教でいう煩悩即菩提と同じことです。

また次のようにも言いました。
「この心を洗い清めて清らかにすれば、天と地の間に塵一つなくなる。素戔嗚尊が言われた、我が心清々しという言葉はまさにこのことだ」

棲雲が次のように言いました。
「心は周囲の環境に従って変化し、環境は心に引きずられて生まれる。もし心を落ち着かせたいと願うならば、世間の人々が愛し求めるものを自分は愛し求めず、世間の人々が行う悪いことを自分は行わないようにせよ。世俗の様々な誘惑が引き寄せようとしても、心を動かされなければ、自然と心は清く明るく、意識は静まって、陰陽の自然の法則であってもその人を惑わすことはできなくなるのだ」

学問をする者は、これを自ら体得しなさい。

室直清の歌にこのようにあります。
皆人の 本つ心は 真澄鏡 磨ばなどか 曇りはつべき
(すべての人の生まれ持った本来の心は、混じりけのない澄み切った鏡のようなものだ。しっかりと磨きさえすれば、どうしていつまでも曇ったままでいるはずがあろうか)

玉璽教門第二

天の神さまは命を育み、誠の心が途切れることはなく、内側も外側も、表も裏もありません。その穏やかなお徳は天地のすべての万物に透き通るように行き渡っており、わずかな隙間もありません。これは、人間の言語や文字で表現できるようなものではありません。
学問をする者がこの門に進み、何かしら得るものがあったならば、あまりの喜びに、自分でも気づかないうちに手が舞い、足が踊り出すほど感動することでしょう。

・大公無我第一章

試しにお尋ねしますが、天の神さまから授かった神魂はどのような形をしているでしょうか。皆さんは、自分自身の内面を振り返って深く考えるべきです。その神魂を遮り、固く閉ざして暗くしているものは一体何でしょうか。いわゆる様々な罪や穢れとは何のことでしょうか。それらはすべて、自分という存在にこだわる我執の妄心にほかなりません。では、その妄心はどのような形をしているのでしょうか。
天の道理に二つはありません。そのすべてを支配する中心を神と呼び、その働きが流れるように広がることを霊と呼び、それが人間に分け与えられたものを神魂と呼びます。神魂は、自分勝手な私欲や肉体の都合による邪魔がないため、光り輝いていて正しく、自然な状態のままであり、これこそが天の道理そのものです。
この正しい心神(神魂)が外に向かって現れるとき、父親や母親に対しては親愛の情となり、君主と家臣の間では義理の重なりとなり、夫婦の間では役割の区別となり、友人同士の間では信頼となります。このように人間のあらゆる行いは、すべて天の道理に基づいています。
この世界には、心神の外にある道など存在しません。また、心神の外にある道理もありませんし、心神の外にある物事もありません。ただ、普通の人間は自分自身の心神の持つ広大さを完全に発揮することができないため、天の道理との間に隔たりが生じてしまい、最後にはその本質を理解することができなくなっているだけなのです。
ですから、神聖な道というものは、父親や母親に対してはただ親愛の情に立ち返り、君主と家臣の間ではただ義理の重なりに立ち返り、夫婦の間ではただ役割の区別に立ち返り、友人同士の間ではただ信頼に立ち返るだけであり、そこに自分という存在にこだわるものは一切ありません。もし、親子の関係や君臣の関係、夫婦の関係、友人の関係にまつわる苦労を恐れて、それらから逃げ出そうとするならば、それこそが自分という存在にこだわっている証拠です。正しい道は人間の心の中に備わっているものであり、最初から内側や外側、根本や枝葉といった区別を語る必要すらありません。
もしも、日々の暮らしの明らかな出来事において、それぞれがその正しい法則に従い、惟神の道を大切に守って、心で行うことと実際の行動が一つに一致するならば、正しい道はまさにそこに存在しています。もし、日々の暮らしの出来事の外側において、別に特別な道を追い求める者がいるならば、その者が行うことは、本当の正しい道とは全く関係がありません。
天地の万物はすべて、神明の光の中に生まれて存在しており、すべてが大きく一つに繋がっています。そこには内側と外側、目に見えない世界と目に見える世界、存在することと存在しないことの区別などありません。
ですから、人間が日常の中で守るべき正しい行いこそが、そのまま天地の道であり、惟神の道なのです。広大で深い知恵も、精密な道理も、すべてその日常の中に備わっています。その正しい行いをおろそかにして、他の場所に特別なものを求めたとしても、そこに天地の道など存在しないのです。
天と地には、自分という私心がありません。だからこそ、途切れることなく次々と万物を生み出して育てることができ、大昔から今まで息吹が止まることがないのです。人間の心神にも、本来は自分という私心がありません。だからこそ、その素晴らしい働きには限界がないのです。
君主に接する時には自分を忘れて忠義を尽くし、父親や母親に接する時には自分を忘れて孝行を尽くします。あらゆる行いやすべての善行が、どこへ行っても完全に成し遂げられないことがないのは、すべてが広く、公であり、自分という私心がなく、目の前の出来事に対して素直に応じているからです。

林鍳堂の詩にこのようにあります。
安心心法有誰知 却把無形妙薬医 医得此心能不病 翻身跳入太虚時 這也了時那也了 紛々攘々皆分暁 雲開万里見清光 明月一輪円皎々 四海遨遊養浩然 心連碧水水連天 津頭自有漁郎問 洞裏桃花日々鮮
(心を落ち着かせるための本当の心法を、一体誰が知っているだろうか。それは形のない不思議な薬をもって病を治すようなものである。この心を癒して平穏に保てば、身をひるがえして何もない広い空間へと飛び込んでいくことができる。その時になれば、これまでの出来事も、これからの出来事もすべてが解決し、騒がしく乱れていた世の中の仕組みがすべてはっきりと分かるようになる。雲が開けて、万里の彼方まで清らかな光が見え、一輪の丸い明月が夜空に美しく輝く。四方の海を自由に巡り歩いて、天地に満ちる広大な気力を養う。心は青い水へと連なり、その水は天へと連なっていく。その川上からは漁師が道を尋ねてくるが、洞窟の中に咲く桃の花は、日ごとに鮮やかに輝いている)

杜少陵の詩の一節にこのようにあります。
呉楚東南闢乾坤日夜浮
(呉の国や楚の国がある東南の果てまで、天地が開けて広がっており、太陽も月も、昼も夜もその大自然の中に浮んでいる)

古い歌にこのようにあります。
照らすとも 月も思はじ うつすとも 水も思はじ 広沢の池
(夜空の月は、池の水を照らそうと思って照らしているわけではないだろう。広沢の池の水も、その月を映そうと思って映しているわけではないだろう。どちらも私心がなく、ただ自然のままに映し合っているのだ)

昔の人がこのように言いました。
「そもそも、人間の心は誰もがみな明るく澄んだ鏡のようなものだ。聖人は、ただその鏡を自分勝手な欲の塵で汚さないようにしているだけである。また、人間の心は誰もがみな静かに満ちた水のようなものだ。聖人は、ただその水を不必要な感情で波立たせないようにしているだけである」

この大公無我という教えは、心神の働きをきれいに掃除して磨き上げるための修行の方法です。学問をする者は、これを自ら体得しなければなりません。

嵯峨天皇の御製にこのようにあります。
久方の 天よりおろす 玉鉾の 道在る国は 今の吾国
(はるか遠い天の神さまから地上へと授けられた、尊い玉鉾の道、すなわち神の道が正しく生き続けている国こそが、今私たちの暮らすこの日本の国である)

五条内大臣基家の歌にこのようにあります。
神こそは 野をも山をも 造りおけ 人に誠の 道を履めとて
(神さまがこの広大な野原も山もお造りになったのは、ほかでもない、この地に生きる人間に、嘘偽りのない誠の道を正しく歩ませるためである)

・天地万物一体第二章

天と地、すべての万物、人類、獣や鳥、虫や魚、草木、そして命のある有機物から命のない無機物に至るまで、およそ天の神さまの天地創造の大業の中に生まれて生きているものは、すべて一つの道理を同じくし、一つの気によって互いに通じ合っており、わずかな隔たりもありません。
天と地の間で生きている者の中で、お互いに愛し合い、親しみ合うことができないものなど一つもありませんが、それはなぜでしょうか。これらはすべて、天の神さま、すなわち私たちの心神の本体と働きが、それぞれの形となってこの世に現れたものだからです。ここにおいて、大公無我の境地に至れば、天と地とすべての万物はもともと自分と一体であり、人間の勝手な下心や力によって引き離すことはできないものであると、はっきりと悟ることができるはずです。
もし、まだこのことが十分に理解できないならば、「神魂にはそれ自身の決まった形はなく、天地の万物をそのまま自身の体としており、神魂にはそれ自身の決まった働きはなく、天地の気が混じり合って万物を生み出す働きを、そのまま自身の働きとしている」という言葉を静かに深く考えてみなさい。そうすれば、必ず心に得るものがあるでしょう。
私のこの身体は両親から分かれたものであり、両親の身体は天と地から分かれたものであり、天と地の気は太虚神明(宇宙の根源)から分かれたものです。ですから、私の身体はそのまま太虚神明の分身にほかなりません。太虚神明の本体が自分の中に備わっていて、完全に満ち足りて欠けるところがない状態、これを立身と呼びます。この心をもって人の守るべき道徳に接し、あらゆる出来事に応じること、これを行道と呼ぶのです。
天地の万物はすべて、太虚神明の恵みの中で生まれ育てられています。そして、私たちの心神はそのままこの太虚神明であるからこそ、本来の神明を自ら悟る時には、天地の万物はすべて自分の心神の中に存在することになります。物事の本質に迷っている人は、人間の心は天地の万物の内側にある小さなものだと言いますが、人間の身体がひとつの心神の中に生かされており、心こそが天地の万物の主人であるということを知らないだけなのです。
徳の高い立派な人物が、天地の万物を自分と一体であるとみなすのは、そうしようと意識して心がけているからではありません。その人の持つ仁の心、これを和魂といいますが、その心がもともとこのような状態であるからです。どうしてこれが、徳の高い立派な人物のみに限ったことでしょうか。普通の人の心であっても、同じように万物と一体になれないわけはありませんが、彼らは自ら自分の心を小さなものに縮めてしまっているだけなのです。
その証拠に、小さな子供が今にも井戸に落ちそうになっているのを見た時には、誰もが必ずハッとして驚き、哀れに思って助けようとする心が生じます。これは、自分の仁の心が、その子供の存在と結びついて一体になっているということです。子供は自分と同じ人間ですが、鳥や獣が恐れて鳴き、恐怖に震えているのを見た時にも、やはり見るに忍びないと思う心が生じます。これは、自分の仁の心が、鳥や獣の存在と結びついて一体になっているということです。鳥や獣はまだ人間と同じように知覚を持つものですが、草や木が折れ踏みにじられているのを見た時にも、やはり憐れみ大切に思う心が生じます。これは、自分の仁の心が、草木の存在と結びついて一体になっているということです。草木はまだ生きようとする意志を持つものですが、瓦や石が壊され砕かれているのを見た時にも、必ずそれを惜しんで心に留める感情が生じます。これは、自分の仁の心が、瓦や石の存在と結びついて一体になっているということです。これらのことから、すべての万物が自分と一体であるという真実を悟ることができるはずです。
天の道理は、あらゆる万物の本体となっており、何一つとして数え漏らすものはありません。それが一人の人間の心に備わるときには、もともと天と地の広がりとともに流れており、自分から途切れることはありません。
そもそも、人間の心にまだ利己的な欲望が芽生えていないときの状態を見てみますと、道理が完全に備わっており、心の中は穏やかな光に満ちていて、まるで春の景色のようです。これこそが、全体の本来の姿です。
この本来の姿を完全に保ち続けることができれば、国家の君主に仕えるときも、父親や母親に仕えるときも、ありとあらゆることまで、自分を欺くような下心が入り込む余地はありません。精神が隅々まで流れ渡り、意志や気力がどこまでも通達して、他人と自分、あるいは物と自分という対立の隔たりが全くなくなります。
そのとき、他人の善悪を見ることは、そのまま自分の善悪を見ることと同じになります。これは、全身の骨や、目や耳などのすべての穴が、お互いに助け合って一つの身体の働きを全うしていることに例えられます。全身に気が満ちあふれ、血の巡りが滑らかであれば、どこかに痛みや痒みが生じたとき、言葉で説明しなくともすぐに我がこととして伝わるのは、まさにこの理由によるものです。
天に満ち、地に満ちて、ただこの霊明だけが存在しているのですが、人間は肉体という形あるものに縛られているために、万物との間に壁を作ってしまい、自らそのことに気づくことができなくなっているだけなのです。
私の持つ霊明は、そのまま天地鬼神を支配する主人にほかなりません。もし天に私の霊明がなければ、一体誰がその天の高さを仰ぎ見るでしょうか。もし地に私の霊明がなければ、一体誰がその地の深さを見下ろすでしょうか。もし鬼神に私の霊明がなければ、一体誰がそのもたらす吉凶や災い、めでたい兆しを見分けることができるでしょうか。
天地鬼神や万物は、私の霊明を離れてしまえば、そこには天地も万物も鬼神も存在しなくなります。また、私の霊明も、天地の万物を離れてしまえば、やはり私の霊明として存在することはできないのです。私の霊明は天地の万物と同じ一つの体であるからこそ、私の霊明の外側には天地の万物など存在せず、天地の万物の外側にも私の霊明など存在しないのです。これを万物一体と呼びます。
草や木の種子は、次々と生まれ変わり変化しながら、その精気が途切れることなく受け継がれていき、その命を生み出し続ける神聖な力を損なうことがありません。人間の身体もこれと全く同じです。自分自身に老いることや若い時があるのは、まるで種子が形を変えて成長していくようなものです。自分が老いていても若くても同じひとつの身体であると分かれば、自分の祖先も自分の孫も、すべてはひとつのつながりの中にある自分の身体であると分かります。これを古今一体と呼ぶのです。
これらの数々の教えを、心の中で静かに理解して受け入れることができるならば、天と地の間にある形のあるものもないものも、感情のあるものもないものも、すべてが自分の穏やかな命の息吹の中に生きて存在している景色が、目の前に見えてくることでしょう。

真淵翁の歌にこのようにあります。
天地の 外には道も 無きものを 日本諸人 抂行なせそ
(この天地の自然の外側には、人間が歩むべき正しい道など存在しないのだから、日本の国に生きるすべての人々よ、素直な心を曲げて不自然な生き方をしてはならない)

室直清の歌にこのようにあります。
朝夕に 保つ我身は 唐衣 たちゐに写せ 道の姿を
(朝から晩まで大切に保ち続けているこの自分の身体は、衣服のようなものである。だから、立ったり座ったりする日々のすべての立ち振る舞いの中に、正しい道の姿をそのまま映し出しなさい)

神鏡教門第三

この境地に進めば、神魂の光がまばゆく輝き出すことは、まるで磨き上げた明鏡のようになります。この世に生まれてから身についた気質の偏りや、罪悪の根本原因を一つ一つ照らし出して打ち破り、数知れない罪や穢れを照らすそばから消し去っていくことで、生まれ持った気質を生まれ変わらせます。
真実の心は、人間の想像を超えた知恵や神の知性を生み出し、遠い未来の国家の興亡や、人間の吉凶も、言葉を介さずにあらかじめ予知できるようになります。
人間は毛のない裸の虫の一種です。人間の知覚や運動が他の生き物と同じではない理由は、ほかでもありません。天の神さまの格別なご加護によって脳の働きが均等に調えられているからであり、鳥、獣、魚、貝などの生き物のように、一部分の感覚だけが優れているのとは違うのです。鳥、獣、魚、貝などの生き物は、耳、目、鼻、口のそれぞれが一偏の感覚にだけ優れており、人間のように全体が均等に調うことはできません。どうして人間と同じになれるでしょうか。
人間の賢さや愚かさの違いも、肉体という器の出来栄えによって生じるものです。賢者はまるで目の見える人のようであり、愚者はまるで目の見えない人のようです。
よく知っておくべきことですが、賢者は脳の器官の働きが均等に調っていることによります。これに対して愚者は、脳の器官の働きが散り散りに乱れていることに関係しています。耳、目、鼻、口、手足のどこかに乱れがあれば、どうして脳の器官だけが乱れずにいられるでしょうか。
目の見えない人は美しい色彩を見ることができず、耳の聞こえない人は豊かな音を聴くことができません。手足の機能が乱れてしまっては、どれも自分の役割を果たすことができません。脳の器官が乱れて、その感覚を司ることができなくなれば、どうして多くの普通の人々と同じでいられるでしょうか。
しかし、これはあくまで生まれ持った気質について言っているだけであり、天の道理の本来の姿ではありません。天の道理は人間の心の中に等しく備わっており、賢いか愚かかによってその扱いを分けることはありません。
そもそも、天の道理は命を育むことを好みます。万物を生み出す様子はまるで鞴のようであり、数多くの様々な形のものもわざわざ配置を整える必要はありません。それでありながら、筋道は人間や万物に等しく授けられており、これが本来の姿として一定であり、整然として乱れることはありません。人間にその徳を全うさせ、万物にその命を全うさせるからです。
ですから、他人の苦しみを哀れむ心や、悪を恥じて憎む心を持つことは、賢い人も愚かしい人も関係なく皆同じです。生きるのを好み、死ぬのを嫌う心を持つことは、人間も万物も関係なく皆同じです。ゆえに、君子は人それぞれの異なる気質を教化して、誰もが同じように持っている本来の姿へと立ち返らせます。これを「正しく学ぶ」というのです。
嘘偽りのないお徳をもって、はるか遠い過去から積み重なった生まれつきの気質の偏りを照らし出します。手足、目や耳などの感覚器官、人間の欲望が絡み合って固く閉ざされ、そのせいで神魂が悩み苦しむ病のような状態を洞察すれば、その原因と結果がすべて明らかになって逃げ隠れる場所はなくなります。そうして、悪い形も影もすべて一緒に消え去るのです。
生まれ持った気の性質には、大きく分けて四つの別があります。昏、明、強、弱の四つであり、それぞれに善と悪があります。これらを八つの区分に分け、それぞれに属する具体的な性質が十二種類あります。「鄙吝」「窒塞」「傲奢」「優惰」「忿恚」「媢嫉」「浮躁」「憂悒」「狡黠」「梟奸」「狠戻」「執拗」の十二種であり、もしこのうちの一つでも持っていれば、神魂の素晴らしい働きを損なってしまいます。 これらを良い方向へと変化させて、十二の良い気質へと生まれ変わらせるべきです。それはどのようなものでしょうか。 「鄙吝」、すなわち卑しく出し惜しみする心は変化して、節約を重んじる「節倹」となります。
「窒塞」、すなわち心が塞がって滞る状態は変化して、細やかで落ち着いた「鎮密」となります。
「傲奢」、すなわち傲慢で贅沢な心は変化して、広く恵みを施す「弘恵」となり、周囲からの威厳と人望を生み出します。
「優惰」、すなわち優柔不断で怠ける心は変化して、他人を受け入れる「寛容」となります。
「忿恚」、すなわち怒り恨む心は変化して、一生懸命に励む「勉強」となります。
「媢嫉」、すなわち嫉妬してねたむ心は変化して、公平に愛する「公愛」となります。
「浮躁」、すなわち軽はずみで落ち着かない心は変化して、多くの人々を愛する「愛衆」となり、上手に世間の用事を処理できるようになります。
「憂悒」、すなわち憂い沈む心は変化して、聡明で見通す力の優れた「睿徹」となります。
「狡黠」、すなわちずる賢い心は変化して、優れた才能を持つ「俊英」となり、自分の光を和らげて人々と上手にお付き合いできるようになります。
「梟奸」、すなわち残忍で邪悪な心は変化して、大きな知恵を持つ「大智」となり、素晴らしい功績を立てて道を修め、高い官職に就いたり教えの祖となったりします。
「狠戻」、すなわち道理に背く心は変化して、学問を修める「修学」となり、苦難に耐えて多くの物事を記憶できるようになります。
「執拗」、すなわち頑固で融通がきかない心は変化して、嘘偽りのない「正直」となり、心が強く正しく潔白であり、引き際を潔く決断できるようになります。
このように十二の悪い気を変化させて十二の良い気を作って完成させ、神魂の功用を全うします。これを、「病痛を照らし返して、生まれ持った性質を変える」というのです。
しかし、これより前にある二つの教えの門を通り抜けて、自分自身の本当の姿が明鏡のようになっていなければ、すぐにこの修行の実践に取りかかることはできません。二つの門を抜けてこそ、神魂の働きが流れるように広がり、何一つ滞ることがなくなります。ここで初めて、安楽な境地を得ることができるのです。

昔の人がこのように言いました。
「世の中に、決して改めることができない気質など存在しない。特に何事もないときは、深く自分自身を省みて、その激しい気をへりくだって柔らかくし、自分の立ち振る舞いを調えよ。物事に直面したときは、心と精神を集中させ、自分の過ちを観察せよ。もし頑固な性質が今にも現れそうになったなら、全力を尽くしてこれを我慢せよ。これを長く続けていれば、やがて自然にできるようになるのだ」

人間の生まれ持った気の性質には、清らかなものと濁ったものの違いがあります。ただ正しい行いを積み重ねて心を養い、外側の誘惑を追いかけないようにすれば、自然と心は清く明るくなります。しかし、わずかでも外側の誘惑を追いかければ、たちまち心は暗く乱れてしまいます。
気には、一時的な浮ついた気と、生まれつき備わっている気があります。もし、ただ浮ついた気を抑えることだけを語って、根本の気質を生まれ変わらせることを語らなければ、それは根本的な修行にはなりません。もし、普段の日に少し心を調え養っているだけで、いざ物事に直面したときにその心を磨き変化させる実践を加えないならば、その心の動きは必ず正しい節度にかないません。
心を養うことに専念する者は、日ごとに自分の足りない部分に気づきます。自分の見識を誇ることに専念する者は、日ごとに自分の余っている部分ばかりを見ます。日ごとに足りない部分を見つける者は、徳が余るようになります。日ごとに余っている部分を見る者は、日ごとに徳が足りなくなっていきます。
学問をする者は、昔の人のこれらの言葉を見て、実際の修行においてどのようにその力を発揮すべきか、その本当の状況を知るべきです。

後醍醐天皇の歌にこのようにあります。
皆人の 心も磨け 千早振 神の鏡の 曇る時なく
(すべての人々よ、自分の心の鏡をしっかりと磨きなさい。勢いよく激しい神の明鏡には、決して曇る時などないのだから)

・本明煥発

呼吸を調える修行が完成し、それによって自分勝手な妄念や、雑多な迷いがきっぱりと断ち切られ、よこしまな考えが一つも生まれなくなって、心が深く静まり返った境地に達したならば、天の神さまが地上に光を降らせて修行者を助けてくださいます。すると、目の前が一度に遮るものなく広がり、神魂が本来持っている明るい知恵がまばゆく輝き出します。これについては特別な口伝があります。
それ以降は自ら体得して、天の神さまこそが自分の神魂であり、自分の神魂こそが天の神さまそのものであると深く悟り、あまりの尊さに感動の涙を抑えることができなくなります。この境地に達するまでの速さは、それぞれの精神が修行に集中できたかどうかによって異なるため、みんな同じではありません。
昔の人が、「そのことについて考えに考え抜き、考えても道理が通じないときには、目に見えない鬼神が今にもこれを教えてくれるだろう」と言いましたが、これは頭で無理に努力するということではなく、精神が極限まで集中した状態を指しているのです。その霊験や感応は、自分自身でこの境地に達してみなければ、人間の言葉を使って伝えることはできません。
どうしてかといえば、この境地に至りさえすれば、どのような正しい道であっても修めることができないはずはなく、どのような仕事であっても成し遂げられないはずがないからです。あらゆる方向に対して曇りがなく、何のこだわりもなく自由自在な心となり、そのまま天と地、この世とあの世の間をただ一人で堂々と歩むことができるようになります。学問をする者は、これを目指してしっかりと励みなさい。

見ぬ人に 何と語らん 難波江の 見てだに更に 言の葉も無し
(まだその景色を見たことがない人に、どのように語り伝えることができるだろうか。あの難波の浦の素晴らしい景色のように、実際に自分の目で見た人でさえ、もはや言葉を失って説明のしようがないほど素晴らしいものなのだ)

鎮魂教門第四

これまでに説明した三つの教えの門を通り抜けて、その後に初めて神魂の本当の姿がはっきりと現れます。その本当の姿が、天と地、あるいは世界のあらゆる空間の外側にまで行き渡って満ちあふれ、生き生きと自由に活動している状態をしっかりと保ち続けます。そして、この世とあの世を貫き、最後には天の神さまの元へ戻って復命するに至るまで、その尊い力を身体の中心にしっかりと鎮めて、動くことも移り変わることもない素晴らしい境地、これが鎮魂です。

・常時鎮魂 不動不遷

職員令の解には、「体から離れてさまよっている魂を招き寄せて、それを身体の中心に鎮める。だからこれを鎮魂と呼ぶのだ」と書かれています。この言葉が意味するところは、外に向かって散らばってしまった心を自分の内側へ収め、普段の暮らしの中で一瞬の間も呼吸が途切れることがないように、心と体を常にはっきりと目覚めさせておくための方法です。
もし、この方法がなければ、たとえ罪を祓う修行が一度は完成したとしても、ある時は熱心に行い、ある時は放り出すという三日坊主のようになってしまいます。塵の中で衣服を振り払い、泥の中で足を洗うようなものであり、これではいつまで経っても修行が完了する時期はありません。それではすべての根本である大本一源の五つの境地、常住安楽や死生一貫の妙味に達することはできません。顕幽無二の門を通り、神人同帰の境地へと昇り、復命天神の秘密の鍵を開くこともできないのです。天の神さまはこれを憐れんでくださり、饒速日命に鎮魂の方法をお授けになりました。
天の神さまは、「一、二、三、四、五、六、七、八、九、十、百、千、万という言葉を含む、六つの言葉と四つの句からなる祝文を唱えて誠心誠意祈るならば、一度死んだ人でさえ再び生き返るほどの不思議な霊験がある」と言われました。大岳翁もまた、晩年はこの教えを深く信仰し、部屋に迎え入れた弟子たちに示すときには、この祝文を数千回も唱えて精神を込めて祈ることを基本とされ、また、むやみに一般人に見せてはならないと厳しく戒められました。しかしながら、ただ声に出して朗読し、一つの念にとどまるだけという方法は、修行を助けるためのものに過ぎません。
そもそも、最高の境地に達するための修行法というものは、神魂や惟神の本体の働きが常に輝いて、暗い部屋でも、公の場でも、激しい戦場でも、死の間際でも、日々の家庭生活の平凡な時間にいたるまで、どのような環境にあっても、あらゆる変化に応じて働くものです。その時、自分の本当の姿は真っ直ぐに凛と立ち、上は天に達し、下は地の底まで突き抜けています。その光り輝く様子は、まるで太陽が昼の空の真ん中に昇っているかのようであり、静かに澄み渡っている様子は、まるで秋の月が冷たい池の水面に美しく映り込んでいるかのようです。このように永遠に動くことも移ることもない境地に住み続けるための方法なのです。
これを長く続けて、完全に自分のものとした時には、神聖な境地へと昇ることができるでしょう。これらはすべて、人に知られず静かに修行に励み、真理を自分でつかみ取ることによって成し遂げられます。
もしも、ただ口先だけで教えを語り、修行を忘れて実体のない理屈ばかりを議論し、自分自身で得た境地が何もないならば、それは神さまとの誓いに背き、神明を欺く者となります。そうなれば、目に見えないあの世からの罰が、立ちどころに自分の身に降りかかってくるでしょう。どうして神々を敬い恐れて、熱心に励まないでいられるでしょうか。

大本一源教門第五

これは、修行を積み重ね、自ら悟ってすべてを見通した先にある奥深い到達点であり、ここには五つの境地があります。

生きることと死ぬことが一つに繋がる「死生一貫」の境地。
永遠に心穏やかに暮らすことができる「常住安楽」の境地。
この世とあの世が地続きであり二つではない「顕幽無二」の境地。
神さまと人間が同じひとつの場所へと帰っていく「神人同帰」の境地。
そして、天の神さまの元へ戻って報告を果たす「復命天神」の境地。

これらは、修行が成熟した後に自然と現れる妙味であり、水が満ちれば自然と川の溝ができあがり、果実が熟せば自然とヘタから落ちるようなものです。道を悟った喜びが、勢いよく体全体からあふれ出し、全身の立ち振る舞いが、言葉を使わずともその境地を周囲に分からせるようになります。
人徳を積み、功績を重ねて亡くなった者は、周囲の人々を教化する存在へと変化し、この世に残るその精神は神そのものとなります。これは人間の言語や文字で十分に表現できるようなものではなく、修行の究極の成果であり、神道の奥義なのです。 心を落ち着けてひたすら実践し、心の中で静かに神さまと結びつくべきです。

底本:本教真訣・修道真法 合本 仮名交り(明治三十年、大成教教務庁)

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